A-yoshiki'sブログ

~言葉の種まき~

自立について、私も考えた。

このブログに何度か登場しているイケダハヤトさんですが、今回も影響受けまくりなので書きます。

先日、Ask.fm  (http://ask.fm/) を使ってイケダさんに「イケダさんが考える自立とはどのようなものですか?」と質問したところ、次のような答えをいただきました。

 

(以下、イケハヤマガジンより抜粋 http://magazine.livedoor.com/press/9899 )

A : 面白い質問ありがとうございます。ぼくは自立というのは、「自分の善悪感覚に沿って生きることができている状態」と捉えています。この定義は、「自由」についても適用できるとも思います。自立=自由とは、「自分の善悪感覚に沿って生きることができている状態」だということです。

自立していない人は、善いことと悪いことの区別を、自分で線引きすることができません。自律的に判断することができず、常に周囲の顔色をうかがいながら、「周囲の人が善いと考えるであろうこと」を恐る恐る実践します。

勇気と覚悟を持って「私はこうするのが善いと思うから、こうするんだ」と勝たれる人は、自由であり、自立していると思います。そして周囲からも、そのように映ると思います。

一般的にいう「経済的に自立している」というのは、些末な話だと思います。親兄弟をはじめとする他者に依存しつつ、精神的に自立するというのは可能です。その意味で、「自立したニート」というのもありえるのではないでしょうか。

逆にいえば、どれだけ経済的に自立していようが、「自分の善悪感覚に沿って生きていない人」は自立している人間だとは思えません。常に他律的で、自分に自信がない人として映るでしょう。

…すみません、上の文章を書き上げたあと、もう一つ切り口の違う定義を思いつきました。「自立とは、他者に依存すること」だとも思います。

自分だけで自立が完結するというのは不可能だと思います。もはやそれは語義矛盾といってよいでしょう。他者に依存することで、自分は大地に立つことができます。地面に立つということは、ある意味で依存するということです。地面なしで立てる人はいませんから。

いつもながら痺れてしまいました。

私も経済的な自立がすなわちその人の自立を意味しないだろうと考えていました。もっと違うところにその本質はあるはずだと。

そこでイケダさんから、自立というのは「自分の善悪感覚に沿って生きることができている状態」という答え。シンプルですが深いですね。

考えてみると私が沿ってきたものは、無責任な他者の評価だったり、通俗的な社会の常識であったり、目的を見失った職場の倫理であったり、上から目線の親の価値観だったりします。経済的には妻と子供を養ってはいても、このような大人が本当の意味で自立しているとは到底思えません。

「そういえば俺って、昔から自分の感覚より周囲を気にして生きてきたなあ。」と。ひょっとして私が感じているモヤモヤや不満は、無視され続けてきたもう一人の自分の感情なのかなあ。そんな場面をいくつか思い出しながら、「ごめんな、オレ…」とちょっとしんみりしてしまいました。

 

でもそれってなぜだったのか? たぶん自分と他者の感覚や考えが違うということに臆病だったのだと思います。違うことが怖かったり、違うと思われることが怖かった。そして周囲に同調してしまう。

人はひとりでは生きていけません。でも、だからといって他者に合わせて生きていたのでは全然面白くないしワクワクしない。フラストレーションも溜まるでしょう。

違う楽器が、それぞれのメロディーやリズムをしっかりと刻むことで全体として奥深く美しい一つの音楽を創り出すように、自分の感覚に沿って自分の人生を奏でる人が増えていくことで素晴らしい世界が創られていくと考えます。

私が見たいのはそのような世界だし、その世界の一員としてしっかりと自立し自分のパートを奏でていきたい。

イケダさんの言葉を読んで、そう思いました。