A-yoshiki'sブログ

~言葉の種まき~

子育ての達人(私のこと)が考える上手な子育て

今日のNHKラジオで、子育てのことを話していたので書いてみます。

 

私には2人の子供がいます。5歳の娘と2歳の息子です。

自分でいうのもなんですが、上手な子育てをしていると思っています。

そこで私が考える上手な子育ての基準(ものさし)を3つ挙げてみます。

 

その1 子供に選択権を与えているか?

 

 基本的に自分の身の周りのことは子供自身に選択権があるべきだと思っています。

 例)その日着る服を選ぶ

   習い事をするかしないかを選ぶ

   何をして遊ぶかを選ぶ

   何が好きで何が嫌いか選ぶ など

 子供は親の分身ではなく、独立した別人格の人間ですので子供に親の考えや価値観を押し付けては子供の人権侵害です。私はこれは禁固刑にも匹敵する罪だと思っています。

 子供は親を選べません。でも自分の生き方は自分で選ばせてあげなければいけません。

 親にとって、子供の選択権を奪ってしまうことはとても簡単なことで、逆に子供が自力で選択権を獲得することはとても難しいことです。

 ですから親はこのことについて細心の注意とある種の自制心が必要になります。

 

その2 しっかりとコミュニケーションがとれているか?

 

 その1のように子供に選択権を与える時にもう一方で必要なことが、お互いのコミュニケーションです。

 選択権を子供に与えるという先程の意見に対して、極端な人は、「子供が道路に飛び出しても子供の選択した結果だから見守るのか?」というかもしれません。でもここで考えたいことは、本当に子供が道路に飛び出すという意味を理解して自ら選択をしているのか、ということです。道路に飛び出そうとした子供は、そこに車が来て轢かれてしまうかもしれないということを知りません。もしくは、注意がいっていない。

 だとすれば、それは車がたくさん通っている道路に飛び出すことの意味を伝えて共有する必要があります。「道路に出ると車が来て轢かれてしまうよ。それでも道路に飛び出したいですか?」ということです。

 その意味が共有できないうちは、やはり親が道路に飛び出ないように見守るべきでしょう。飛び出そうとしたらその行動を制します。これは子供の選択権の侵害ではありません。子供の生存権の擁護です。

 

その3 子供を一人の独立した人間として信じられているか?

 結局のところ、これにつきます。

 その1もその2も子供を一人の人間として信用することができるかが問われています。

 これができなければ、子供の選択の余地は狭められて親が介入してくるでしょうし、お互いのコミュニケーションではなく、親からの一方的な指示や伝達になるでしょう。

 ここで注意したいのは、この信じるということばで、逆に子供を縛ってしますケースがあることです。

 「私は自分の子供がいい子であると信じています。」「この子なら絶対できると信じています。」といった感じで、自分が思い描く子供像になることを信じる、というか期待し要求するケースです。

 本物の信じると偽物の信じるの違いを明確をするために、次のような問いを投げかけてみます。

 「子供が出した結果によって、その信頼は変化しますか?」という問いです。

 後者の場合、信じるといっても結局は子供に対する自分の期待ですので、その結果によって「信頼」が変化してしまします。例でいえば「この子はいい子だと信じていたのに違った。私は裏切られた。」となります。

 そんなこと知るか、といった感じですが、けっこうありがちですよね。

 

 でも一人の人間として信じることができていれば、いちいち裏切られたり、信頼が揺らいだりはしません。なぜならば、その子供がどんな人生を選択しようと確固たる一人の人間であることに変わりはないからです。

 信じているから、見守ることができます。信じているから、待つことができます。

 信じているから、愛することができます。信じているから、許すことができます。

私たち子供を持つ親に一番問われている部分はここだと思います。

 

そして私は、

自分の子供たちを一人の人間として信じています。だから子供たちが例え人殺しをしても私の子供たちに対する評価は変化しません。

あらためて言います。私は子育ての達人です。