責任なんかとれません
責任ということbにしばられて前進できない人や他人の足をひっぱる人が多すぎると思うので、責任について無責任に書いてみる
責任の所在を求める人たち
職場で新しい企画を提案すると、上司は、「それをやって、もし何かあったら誰が責任をとるの?」と言います。でもこれは質問されているのではありません。「オレは責任とれないよ。」という一種の自己防衛であり、NOの意志表示です。
同じようなことばは、地域の中でもよく聞かれます。「新しい公共」ということが推進されている経緯もあり、地域の人たちが”担う”重要性や場面が増えている中で、「もし活動中に何かあったら、誰が責任をとるの?行政が責任をとってくれるの?」と言います。
結局、責任の所在なんて絵空事なんですね。
そして、この責任の所在を求める姿勢は、それまでの思考や行動を一時停止するどころか、Uターンされる力さえ持っています。
相手に「無責任」という人たち
相手に責任を押し付ける人たちもいます。相手に「それは無責任じゃないの。」というわけです。つまり「もっと責任感持てよ。」と。最近このことばを見かけるのは、個人のブログなどの意見に対してのコメント欄です。
自由な自己の表現の場(特定できる他人を中傷しないことが前提)であるブログなどに対しても責任を求める人たち。
結局、自分とは違う意見を許せなかったり、自分の器に収まらなかったりするんですね。率直に、自分とは違う意見だ、と言えばいいのに、社会の良識や価値観などを暗にもち出して、無責任という言葉で糾弾します。
このような、相手に責任を求める姿勢(自分の常識の範囲内の意見を求める姿勢)は、相手の伸びようとする自我をちょん切ってしまうことさえあります。
そんなこと言ったて、責任なんかとれねーよ
結局、究極には、他人に対して責任なんかとれねーよ、というのが私の意見です。
動物も植物も人も、その場その場で、生きて、死ぬだけです。
全く同じ形のない雪の結晶のように、一つとして同じ形のない完璧な生命がそれぞれの自己を表現して影響しあって全体をつくりだします。
だから、他に影響をあたえたから責任をとれと言ったり、自分の常識と違うから無責任ということばで他者に自制を求めたりすることは、生きることを否定するものです。
私は、責任の所在よりも原因の所在を、他に影響を与えた責任よりも影響を与え合うシステムやプロセスについて考えたいと思います。