A-yoshiki'sブログ

~言葉の種まき~

挨拶が必要な社会について考えた

 毎年、年度初めの上司のあいさつで、「朝と帰りの挨拶をしっかりしましょう」と言われます。「挨拶をしっかりすることによって、職場内の人間関係が良くなります。仕事でギクシャクしても、挨拶をすれば修復できます。」だそうです。

 

思い返せば、小学校、いや、幼稚園の時から言われてきました。「ちゃんと挨拶しましょう」って。なぜそんなに「挨拶」を重要視するのでしょうか? 確かに、職場で、朝黙ってデスクについて、帰る時も挨拶をしなかったら人間関係はギクシャクします、ほぼ間違いなく。

 

でも、なぜ?

 

前に読んだ本の中で、あるヒントをくれる文章があったのでご紹介します。

 

 野田知佑著:「北極海へ」から抜粋します。(著者は、世界中の川をカヌーで旅していますが、この本では極北の川を漕ぎ下っています。)

 

 “マッケンジー川流域のインディアンに限って言えば、彼らには<挨拶>の類いの言葉がない。「こんにちは」、「さようなら」、「ではまた」などに相当する言葉は一応あるにはあるが、実際にはほとんど使われてない。お年寄りにきくと1分間ほど考えこんで、やっとそれに近い意味を持つ言葉を見つけた。人と会った時は黙ってうなずき、別れる時は黙っていっちまう。感謝の意を表す「マシ」も昔、フランスの牧師たちが持ちこんだ「メルシ」からきたもので、それまで「有難う」に当たる言葉はなかった。

 インディアンの社会では他人から物を貰ったり、くれてやったりすることは、<当然のこと>と考えられていて、それに<挨拶>が必要になるほど偽善が発達しなかったのである。

 

なるほどな、と思います。

 

少なくても、このコミュニティーでは、「挨拶」は「不要」だったわけです。つまり、挨拶をしなくても人間関係がギクシャクしないし、罪悪感も生まれない。日本とは、逆の構造です。この違いを掘り下ると歴史とか風土とか宗教とか色々絡んでしそうですが、挨拶が重要か重要でないかという点については、(極北であれ日本であれ職場であれ家であれ)その場にいる人間が、挨拶をすることによって、もしくはしないことによって、どのような影響や気持ちの変化を与え合うか、ということが関係します。

 

 つまり、「挨拶」自体には普遍的に重要な価値はないわけです。(当然ですが)

 

 

でも、この国では挨拶や礼儀は、当たり前のこととして(常識として)、重要視されてきました。このことは日本人の美徳と言われますが、私は必ずしもそうではなく、その逆の部分、その裏側のメンタリティーの必然的な表出化なのでは、と考えます。(徳でない部分を隠すための)

 

 

とにかく、この狭い国では挨拶ができない人間は「村八分」になってしまいます。

 

  クワバラ、クワバラ・・・