A-yoshiki'sブログ

~言葉の種まき~

増税前に、思い切って洗濯機を購入しました。

今日、コジマ電気で洗濯機を購入しました。

最近洗濯機の調子が悪かったので、消費税増税前に大人買い

日立ビートウォッシュの一番大きいやつ(10㎏使用)を買っちゃいました。

 

その時の価格交渉で、今までとはちょっとした変化が…

今までは最初に値段が書いてあって、その値段を見ながら近くの店員に「もっと安くならない?」と訊く。その店員が一度裏に行って価格を調整後、「ここまでならなんとか頑張れます。」と値段を提示する。でこちらが、「まあ、そんなもんかなあ~」となんとなく納得するやりとり。

でも今日は、そのやりとりの後、私がスマホを取り出して、価格ドットコムを見出しました。するとその店員が逆に私に訊きます。「インターネットでは、いくらになってますか?」と。

こちらが店員に価格を尋ねることがあっても、向こうから訊かれるのは初めてのこと。

なんか新鮮でした。

結局、インターネットの最安値より1,000円高い値段で落ち着きましたが、私はこの値段にとても満足しています。

一つは、私がこの商品の最安値を把握しながら、値段交渉できたこと。

これによって、現在の値段が他店との比較の中で相対的に安いのか高いのか評価できます。今まではこれがなかったので、「なんとなく安く買えたのかあ~」という半信半疑の中で自分を納得させていましたが、今回はちゃんと「最安値ではないけれど、それに1000円プラスの値段で、自分で納得して買った。」と具体的に言えます。

 

もう一つは、店員とのキャッチボールがあったこと。

先にも述べた今までのような値段交渉は、そこに対話があるようにみえて、実のところ値段を決めているのはお店側です。売る側が値段を決めることは至極当然なのですが、購入者にとってはモヤモヤが残るケースも少なくありません。逆に、その値段決定のプロセスに購入者の具体的な意見が反映されると満足度が大幅にアップします。

今回の場合で言えば、最初お店は、「125,000円までなら安くできます。」と言いました。これはお店が決めた値段です。それで私がインターネットでの最安値が、117,000円だと伝えました。するとお店側は、この117,000円を視野に入れつつもう一度値段を考えます。その結果、この洗濯機の値段が118,000円に決定しました。

この値段決定のプロセスに、私の意見(もしくは私が得た情報)が反映されていると感じることができます。このことがとても大切なことだと思いました。ここにはお互いの意見や情報のやり取りがあります。

特にこれからは、インターネットなどの普及によって情報がオープンになっていきます。そのオープンになった情報のキャッチボールのなかで折り合いを付けながら物事を決めていくことがお互いの信頼関係を構築し満足度を上げことにつながります。

 

そのためには、情報の大切さをもっと自覚する必要があると思います。インターネットの弊害ばかりに目を取られて、それを遠ざけているとこれからの社会では大きなハンデを背負うことになります。

私たちは情報を得ることの重要性を再認識し上手に活用していくことにって、よりシンプルに、より明快に生きていくことが可能だと考えます。今回の場合も、117,000円という根拠のある数字(インターネットという共通言語の中の数字)をこちらから提示することによって、値段交渉がシンプルで明快になりました。

 

そんなこんなで本日の高い買い物は納得感が高いです。

まあ、せっかく洗濯機を買うわけですから、スッキリといきたいですもんね。

 

 

ホワイトデーのお返し、買ったけど渡していない

ホワイトデーのお返しを買ったけど、まだ渡していない人が2人います。

これ、いつのタイミングで渡すか思案中。

もちろん職場関係の義理チョコなので相手も気にしていないと思うけど、会う予定がないのでちょっと不安。

このまま数か月は渡せなさそう・・・

郵送とかも違うと思うし・・・

わざわざそのために予定とってもらうのもね~

というわけで、今机の上に桜色のお菓子の箱が2つあります。

 

ホワイトデーで思い出すほろ苦いお話。 

唐突ですが、私、小学生の時が最高のモテキでした。

どのくらいモテたかというと、誰にチョコレートをもらったのかわからなくなるほどモテました。特にグループで来て一度に渡されたり、自分がいないときに家に持って来られたりすると誰からもらったのかハッキリわからなくなってしまって、小学生なので手紙とかも入っていないし、結局ハッキリしているのは、いくつ貰った、という数だけ。

これで困るのがお返しの時です。

ちゃんと直接渡してお礼を言いたいのだけど、できない。

それで困った少年は、休み時間に教室にいる女子たちに向かって言いました。

「ぼくにチョコレートをくれた人は、お返しを渡したいので取りに来て。」と。

この言葉がいけなかった。

それで一気に教室の空気が変化するの感じました。

「あれ? オレ、なんかマズイこと言ってしまった!?」

とすぐに感じるくらい空気が変化しました。

「何様なの!!」的な空気です。今思い出しても少し冷や汗ものですが、その瞬間はその変化の理由がわからないのでただ焦るばかり。

あの頃は、若かった。

と、軽く振り返りたいのですが、この時にどうすればよかったのか、今でも正しい答えが見い出せていません。

 

【問い】

「クラスの複数の女子からチョコレートを貰ったが、その相手を特定できない時に、ホワイトデーのお返しを直接、感謝の気持ちを込めて、相手を傷つけることなく渡すにはどうすればよいか?」

 

難問です。

 

でもこの難問の正解を見い出せても、もはや活用できそうな場はない。

こっちの方が問題?

 

 

風が強い日は、落ち着かない

昨日もそうだけど、今日も風が強かったですね。

こんな日はどうも落ち着かない。

例えば、自分の身体の周りにも孫悟空のような「気」が存在して、風が吹くとそれが揺れたり飛ばされたりしてしまうような感覚。わかりづらいですかね。

とにかく風が強い日に外に居ると、風が気になって集中できない。

それでいて、強風がすべて嫌いかというと必ずしもそうではなくて、台風の時の強風とか、夏の暑い日に夕立で雷鳴とともに吹く強い風は大好きです。なんかこう、本能を揺さぶられるというか、自分の中から何かが湧き出してくるというか、裸で外に飛び出したくなるような衝動に駆られるんですよね。

でもこれ、家族にはかなり不評です。特に妻には変人呼ばわりされています。

そりゃそうですよね。雷がなって風雨が強くなると逆に窓を開けたり、外に出て行ったりするんですから。

そーなんだけど、これって自分の中では正当化できる部分もあって、というかシンプルに、「あの自然の力強さを前にして、おまえら何も感じないのかー!!」と言いたい気持ち。

共感してくれる方、いますか?

 

山月記」のように、土を手で掴んで走り出したくなるんですよね~

一応まだ人間ですけど・・・

 

 

焼肉店のチラシを見て 今から行きたい 春の夜

朝、焼肉食べ放題のチラシを見て、無性に食べたくなった。

割引券付いてるし。

でも今日は行かなかった。夜遅くまでやってるので今から行こうかな…

 

そんな気持ちの春の夜。

みなさんはいかがお過ごしですか?

 

久しぶりにブログを書こうと思ったのは、やはりイケダハヤトさんの影響。

彼の新刊を読み始めたから。「なぜ僕は炎上を恐れないのか」という本。

このブログを始めたのもそうだけど、FBを始めたのも彼の話を聞いてから。

本当にたくさんの影響を彼から受けているなあ、と思う。

ここまで影響を受けると、直接的には講座やイベントに参加した程度でほとんど面識もないのに、勝手に親友のような感覚を覚えてしまうから不思議。

まあ、自分に友達が少ないせいもあるのかな。

 

彼の本を読んでいて、自分が時間を忘れて読む作家が数人いることに気づく。

1人はイケダハヤトさん。この新刊もさっき子供をお風呂に入れるまで夢中で読んだ。

2人目は梅原大吾さん。この人の勝負や成長に対するブレない考え方に勇気を貰える。

3人目は為末大さん。この人の緻密な思考力に唸ってしまう。

この3人の本は、ホント、時間忘れる。そして、この3人には、生き方とか勝負とか成長とか、そんなキーワードの中に共通するものがあるなあ、と感じる。

結局、付け焼刃じゃないんだよね。本気なんだよ。ブレないもん。集中力がハンパない。

 

自分でも何か本気に打ち込めるものを見つけたいなあ。

基礎だけに数年かけて築き上げていくような、そんな夢中になれるものを見つけてじっくり時間をかけたい。

そろそろ4月になるし、そんなことを始めてみるのもいいよね。

けっこう器用だから割とそつなくこなすんだけど、じっくりやれないところがあって、それなりのところで終わってしまう。だからその先にあるものを掴めないんだよね。

「その先にあるもの…」 

今までの自分の枠組みからはみ出して、少し目指してみたいなあ。

焼肉のその先にあるものは?…  ラーメンとか?

 

子育ての達人(私のこと)が考える上手な子育て

今日のNHKラジオで、子育てのことを話していたので書いてみます。

 

私には2人の子供がいます。5歳の娘と2歳の息子です。

自分でいうのもなんですが、上手な子育てをしていると思っています。

そこで私が考える上手な子育ての基準(ものさし)を3つ挙げてみます。

 

その1 子供に選択権を与えているか?

 

 基本的に自分の身の周りのことは子供自身に選択権があるべきだと思っています。

 例)その日着る服を選ぶ

   習い事をするかしないかを選ぶ

   何をして遊ぶかを選ぶ

   何が好きで何が嫌いか選ぶ など

 子供は親の分身ではなく、独立した別人格の人間ですので子供に親の考えや価値観を押し付けては子供の人権侵害です。私はこれは禁固刑にも匹敵する罪だと思っています。

 子供は親を選べません。でも自分の生き方は自分で選ばせてあげなければいけません。

 親にとって、子供の選択権を奪ってしまうことはとても簡単なことで、逆に子供が自力で選択権を獲得することはとても難しいことです。

 ですから親はこのことについて細心の注意とある種の自制心が必要になります。

 

その2 しっかりとコミュニケーションがとれているか?

 

 その1のように子供に選択権を与える時にもう一方で必要なことが、お互いのコミュニケーションです。

 選択権を子供に与えるという先程の意見に対して、極端な人は、「子供が道路に飛び出しても子供の選択した結果だから見守るのか?」というかもしれません。でもここで考えたいことは、本当に子供が道路に飛び出すという意味を理解して自ら選択をしているのか、ということです。道路に飛び出そうとした子供は、そこに車が来て轢かれてしまうかもしれないということを知りません。もしくは、注意がいっていない。

 だとすれば、それは車がたくさん通っている道路に飛び出すことの意味を伝えて共有する必要があります。「道路に出ると車が来て轢かれてしまうよ。それでも道路に飛び出したいですか?」ということです。

 その意味が共有できないうちは、やはり親が道路に飛び出ないように見守るべきでしょう。飛び出そうとしたらその行動を制します。これは子供の選択権の侵害ではありません。子供の生存権の擁護です。

 

その3 子供を一人の独立した人間として信じられているか?

 結局のところ、これにつきます。

 その1もその2も子供を一人の人間として信用することができるかが問われています。

 これができなければ、子供の選択の余地は狭められて親が介入してくるでしょうし、お互いのコミュニケーションではなく、親からの一方的な指示や伝達になるでしょう。

 ここで注意したいのは、この信じるということばで、逆に子供を縛ってしますケースがあることです。

 「私は自分の子供がいい子であると信じています。」「この子なら絶対できると信じています。」といった感じで、自分が思い描く子供像になることを信じる、というか期待し要求するケースです。

 本物の信じると偽物の信じるの違いを明確をするために、次のような問いを投げかけてみます。

 「子供が出した結果によって、その信頼は変化しますか?」という問いです。

 後者の場合、信じるといっても結局は子供に対する自分の期待ですので、その結果によって「信頼」が変化してしまします。例でいえば「この子はいい子だと信じていたのに違った。私は裏切られた。」となります。

 そんなこと知るか、といった感じですが、けっこうありがちですよね。

 

 でも一人の人間として信じることができていれば、いちいち裏切られたり、信頼が揺らいだりはしません。なぜならば、その子供がどんな人生を選択しようと確固たる一人の人間であることに変わりはないからです。

 信じているから、見守ることができます。信じているから、待つことができます。

 信じているから、愛することができます。信じているから、許すことができます。

私たち子供を持つ親に一番問われている部分はここだと思います。

 

そして私は、

自分の子供たちを一人の人間として信じています。だから子供たちが例え人殺しをしても私の子供たちに対する評価は変化しません。

あらためて言います。私は子育ての達人です。

 

   

悩んでいるときこそ書いてみます。そりゃ~

なるほどなぁ~

この1か月、全然ブログを書く気分ではなかったのですが、イケダさんのこんな記事を読んだので書いてみます。

http://www.ikedahayato.com/index.php/archives/28532

 

最近は、仕事のことで悩んでいて、結論から言うと辞めたいのです。

でも辞められないのかなぁ~という思いもあって、生殺しの状態。

 

悩んでいるうちに、自分の今までの人生を振り返るようになりました。

今までの人生で、本当に自分のやりたいことを夢中でやってきたことがあったのだろうか?と。

で、一つ一つ掘り下げていくと、驚くほど、ない、のです。そういうことが。

ほとんどが、親や周りの人間の影響で流されてやっていたこと。

例)

1 小さい頃、私は野球が嫌いでした。でも、近くに住む従兄が野球が好きで毎日壁にボールを当てていて、従兄と一緒に遊びたい私は仕方ないから自分もマネしてやっていました。すると、やっているうちに上手くなって、「上手いから野球やった方がいいよ。」と周りの人に言われ学童の野球部に入部します。結局、良い成績は収めたのだけど、どこか熱中できずに冷めている自分がいました。

2 中学の頃、私は勉強が嫌いでした。でも、親や祖母が口うるさく「勉強しろ」と言うので、仕方ないから塾にも行って一通りやっていました。すると、やっているうちに上位の成績になって、地元の進学校に進学します。結局、良い成績は収めたのだけど、どこか熱中できずに冷めている自分がいました。

3 高校の頃、私は塾が嫌いでした。でも、親は辞めさせてくれないし、サボる勇気もないので仕方なく通っていました。すると、通っているうちに自分がそれほど頭がよくないことに気づきます。結局、身の程の大学を受験して、浪人はしないですんだのだけど、どこか自分に対しても冷めきっている自分がいました。

4 大学の頃、私は集団が嫌いでした。でも、友達からは誘われるし、一人でいても特にやりたいことがあるわけではないので、仕方なく集団の中にいました。すると、その集団の中にいることに慣れてきて居心地よく感じます。結局、トモダチはたくさんできたけれど、親友と呼べる人間はいませんでした。

5 現在、私は職場が嫌いです。でも、妻も子供もいるし、特に他に目当ての仕事があるわけでもないので仕方なく働いています。すると、目的を持って仕事をしようとすればするほど消耗するので何も考えないほうがストレスなく働けることに気づきます。結局、仕事は無難にこなすけれど、ハマっていない自分がいます。

 

今、自分の生き方を見直すべきだと思っています。

「進学のために」とか「評価されるために」とか「家族のために」とか、その他もろもろの〇〇のために何かをするのではなくて、ただひたすらそのこと自体のために自分を研ぎ澄ました生き方ができないものかと考えています。

大学時代、自転車で東北地方を一周しました。日本海側から大間崎に行って太平洋側を帰ってきました。テントを持って単独行。

私はこの旅で自分が変われると思っていました。でも大間崎を折り返してもゴールに近づいてきても何も変わった感じがしない。

そんな自分に焦っていたときに、緑の絨毯のような麦畑に風が通ったのです。

麦の穂に風が形を表して過ぎていきました。

その光景を見ていた私はなぜか閃きました。

”自分が変わるため” → ”自転車をこぐ” ではなくて、

”自転車をこぐため” → ”自転車をこぐ” でいいのではないか? と。

もっとシンプルで、もっとひたむきで良いのではないか? と。

 

今、そんなこと思い出しながら、もっと目的と行動が直結した生き方ができないものかと考えています。

ひょっとしたら「考えています」の時点でダメなのかも。「行動しています」でないと。

考えずに動け!!ただ動くだけのために。

 

明日予定していたレーシック手術は延期させていただきます。

明日予定していたレーシック手術を延期いたしました。(時期未定


明日の朝一で、上司と一緒に頭を下げに行く仕事が入ったからです


想定外の事態には想定外の対応。(サラリーマン的誠意・・・)


やっと決心ついたのに、こういうことがあると手術するなと言われているようで複雑。

 

少し気が抜けてしまいました。

 

でも、手術をキャンセルして、秋の風に感じたあの解放感は何?